迷わせられる子羊たち

〇〇 city―

それは、天上人の集う街。成金達が自己顕示に勤しんでいるあちらやこちらとは格が違う、実力に裏打ちされたホンモノが集まってくる街である。刺激に飢えた東京のオトナたちー天上人にとって、この街自体が極めてセクシーな存在なのだ。

 

ここではありとあらゆるものが所有欲を掻き立ててくる。靴や鞄、洋服に始まり、腕時計、香水、パスケース、スマホケース、およそ自分に箔を与えてくれる全ての商品が小ウィンドウに並んでいる。値札などはとても見にくい場所に隠されているが、「コスパが良いから」とか「安いから」などという野暮な理由で意思決定を行う庶民はこの街のアウトオブ眼中なので、何一つとして問題ない。天上人はいつだって「気に入ったから」買うのである。

 

ショップは世界、スタッフは案内人

言うまでもないが、品物はただ道端に並べておけばよいというものではない。良い絵画が立派な額縁に収められるように、良い商品は美しくも控えめにしつらえられた空間で天井人を待っている。その佇まいからは強さを感じさせ、まるで商品の側が客を選別しているかのようだ。

店員もまた重要な役割を持っている。ある時は美術館の学芸員のように、商品の持つ世界観を伝えているし、またある時は生きるマネキンとして、羨望のまなざしを向けられる使命を背負っている。いうまでもなく、彼らは人間である。したがって、その立ち振る舞いからは彼らなりのメッセージを感じ取ることが比較的容易である。おそらくこれが、居心地の悪さにつながっているのだが。

 

おしゃれスポットがオープンしました!

新たな施設、特に大型の商業施設が開業すると、様々な広告媒体でその存在を広く知らしめることがしばしば行われる。目に触れるたび、なんだか世間の流行をリードしている存在かのように受け取る側は錯覚してしまう。ゆえに興味をそそられる。

しかし、良く言えば多様化した、悪く言えば格差の伴う現代社会において、もっとも矛盾した存在なのがマス的な広告宣伝なのである。画一的な価値観が崩壊し、坩堝の如く混ざり合う”何か”に向かってメッセージを伝えなければならない彼らの宿命は、なんと残酷なことだろうか。伝える側も、受け取る側も、その真意の一体何パーセントを認識できていようか。

例えるなら、過剰に薄めたカルピスを「おいしいですよ」と渡され、「世の中でおいしいと思われているのはこれか~」と思いながら飲むような状況である。これでは、カルピスを発明した思いやストーリーなど、伝わるはずなどないではないか。

こうして、場違いな言動や行動を”そそのかされ”、そして、理想と現実のギャップを目の当たりにするのである。

 

百聞は一見に如かず

目の当たりにすれば良いのである。下には下が、上には上が、必ず存在するのだから、途上国に行って「かわいそうに、恵まれている私はこの人たちのためになることをしなきゃ」と思ったのをきっかけに一流商社を目指す人だっているし、東京の高級デパートで「なんてこった、こんな世界があるなんて羨ましい!よし決めた、上り詰めてやる!」と金儲けに奔走する人が居たって良い。

ところが、この混沌とした世界では必ずしも全員がポジティブマインドにあふれているわけではない。未熟な人間が安易に絶望し、「こんな世の中間違っている!」(という考え自体は否定しないが)と暴力に走る可能性は決して低くない。

幸か不幸か、世界はICTの発展と同じくして格差が広がったため、自分の立ち位置を”突きつけられる”機会が急速に増加した。そして防衛機制的に個性が重視されるようになった。「身の丈に合った生き方で良いのです」という言葉で安心を得られるのなら、それに代わる価値観など要らないと。

 

今日も世界は美人やイケメン、成功者、コンプレックス産業のマス広告であふれている。いったい天上人は迷える子羊たちをどこへ誘導したいのか、わからないようで、すこしわかってしまうのが、悔しい庶民の性である。